スープ

 

 
気づくと、彼女が台所で何かを混ぜていた。疲れたのか混ぜる手を止めて、もう片方の手を腰にあてて休憩している。
「何だよ、それ」
アミノ酸のスープ」
こんな事をいちいち聞かないでよ、とでも言いたげなふうに彼女は答える。
鍋の中には混ぜるために使っているおたまと、赤茶けたどろどろとしたものが入っている。彼女曰く、どうやらこれがアミノ酸のスープらしいが。
「何だよ、これ」
アミノ酸のスープ」
「いや、そういう事を聞きたいんじゃない。なんでアミノ酸のスープなんかが鍋に入ってるんだ。そもそもアミノ酸のスープって何だよ」
「そう聞きたかったのなら、最初からそう聞きなさいよ」
彼女はめんどくさそうに答えた。
「原初の生命って、当時アミノ酸のスープだった太古の海から生まれたらしいでしょ。だから、こうやってアミノ酸のスープをかき混ぜてたら、生命が生まれるんじゃないかって思ったの」
「え?」
これで説明になっていると思っているらしいが、まったく理解ができない。彼女は相変わらず呆れた顔をしているが、そうしたいのは僕のほうだ。
「生命を生み出すために、アミノ酸のスープを台所で混ぜていると」
「そうよ」
僕の混乱をよそに、なんでもないような事のように彼女は言う。何回もそう言ってるでしょう、そんな風に言っているようも聞こえる。
「これがアミノ酸のスープなのか」
「そうよ。生命が生まれるのに必要なものは全部入ってるはず」
「なんでそんなことわかるんだ」
「さあね」
「どうやってこんなものを手に入れたんだ」
「さあね」
「なんで台所でこんなことをしているんだよ。料理しているのか、実験しているのか、どっちなんだ」
「似たようなものでしょ」
彼女はそっけなく答える。追及をしてもはぐらかされてしまう。
仕方が無いので、僕はとりあえず、彼女が台所でアミノ酸のスープを混ぜている、という事実は認めることにした。それにしてもわからない。彼女がわけのわからない事をするのはどうも今に始まったことではないように思われたが、今回はさらにわけがわからない。
アミノ酸のスープを混ぜてほんとうに生命ができるのか」
「できるわよ、そうなっているもの」
生命の起源にまつわる学説で、うっすらと、そんな話をどこかで聞いたような覚えは確かにある。しかし、そうなっている、という言い方がなんとなく引っかかる。
「わかった。じゃあ、仮に原初の生命がアミノ酸のスープをかき混ぜて生まれたものであるという事が本当だとしよう」
「だから、そうなっているの」
「それでもな、その事実は、地表を覆いつくす大海というとてつもなく広大で巨大なスープの、さらに気の遠くなるような長い時間の中を経た上での話だろう。それとおんなじスープがあったとしても、六畳一間の安アパートの台所にかけた鍋の中なんかで生まれるわけがない。そこから生命が生まれる確立は限りなくゼロに近い、そのくらいはわかるだろ」
「でもね、最初の例が、気の遠くなるような時間を要したとしても、今あるアミノ酸のスープから生まれる確立はゼロじゃない限り、次の瞬間に生まれる蓋然性をスープはつねに秘めているはずでしょう。少なくとも私が攪拌を続けている限りはね、だからこうやって続けている限りは、いつ生命が発生してもおかしくはないでしょ」
確かにそうかもしれないが、やっぱりおかしい。
「それにしても仮説に過ぎないわけだろう、それ。あとさ、そうなっている、ってどういうことだよ。なにか根拠でもあるのか」
「根拠もなにも、混沌を攪拌することで何かが生まれるのは普遍的な理屈よ。そもそも、真空の量子的揺らぎが自己組織化によって現実に転化したのが、ビックバンでしょう。揺らぎは攪拌。万物の生み出された理由がそうなら、おんなじ理屈がこれにも当てはまるってことくらいわかるでしょ。すべては混沌から形づくられるの」
「ずいぶん神話的な考え方をするんだな」
「あら、皮肉で言ってくれているのだろうけど、神話が世界を形作っているのよ」
「あのな、ビッグバンは、神話的なドグマじゃない。慎重な観察と客観的データを積み重ねた上で提唱された、極めて合理的な推論だ、しかも反証可能性を秘めた、有力な仮説のひとつに過ぎない」
「違うわ。万物の根源にある神話的思考が、人間をそういう考えに至らせるのよ。方向が逆なの」
「万物の根源が混沌と攪拌ってか、突飛な事を言い出すものだな」
「だって、人間から生まれてくる生命的なもの、つまり、人間を新たなステージへ突き動かすアイデアや、普遍的な芸術作品であるとかも、そういうふうに出来ているでしょ。アイデアが生まれるのは、静的な状態からではないわ。混沌のスープがまずあるの。でも、そこから無理やり引き出そうとしても、まだ形になっていないからだめ。散歩をして上下に頭を揺らしていたり、シャワーを浴びていたり、とにかく頭の中にある混沌としたスープ状のものを、そうやって攪拌することで、そうしてはじめて、あるきっかけで確固たるアイデアが形を持って生まれてくる。そうやってだいたいのものは出来ているのよ。そう考えたほうが理にかなっているでしょう」
「理屈が通ってるのは当たり前だ。でも命題も結論も客観的な真実じゃない。ロジックとしては君の言葉のなかでは真だろうけれど、客観的真ではない」
「あなたって、ほんとに残念な頭をしているのね」
心底呆れられてしまった。
まあしかし、彼女のこういう時には何を言っても仕方がない。これ以上水掛け論をするつもりは僕にもないので、とりあえず納得したふりをする。そんなことよりも、そろそろ飯の時間のはずじゃないのか。前に飯を食べたのはいつごろだったかも思い出せない。お互いに空腹のはずだ。
「ところで、どのくらいのあいだ混ぜ続けてるんだ、これ」
「さあね、そんなの数えてないわ。試行の瞬間瞬間に一様に蓋然性があるのだから、過去の試行した時間なんて数えたって仕方ないでしょう」
また要領を得ない答え。
彼女のこんな事は、確かに僕も慣れっこではあるが、さすがの僕もこれ以上付き合ってはいられない。彼女の珍妙奇天烈な言い分を聞いてはいられない。
「そろそろいい加減にしてくれないか、そのスープはどこかにやってくれ」
「さて、問答も飽きたし、そろそろまたスープを混ぜはじめようかしらね」
「おい、それだと僕はどうなるんだ」
「さあね」
そう言って彼女は鍋の中を見る。僕と目が合った。
 
あっと気づいた。
 
その瞬間、僕の中にきっかけのように電流が走った。反射的にスープの中で泳動が生じ、要素が個々に引力を持ち、一つのものに凝固しはじめた。なにかが生まれようとしていた。
が、すぐ介入した攪拌によって雲散霧消して、またよくわからなくなってしまった。