4.10

 

日も没して満員の電車で吊革に縋りながらぼーっとしていると、前の座席に座っている人が、イヤホンをして目の前のiPadでタスクをこなしながら、もう片手のiPhone嫁コレを起動して、嫁を取っ替え引っ替えしながら指で無表情の愛撫をしているのを発見する。時間的に仕事帰りの筈なのに、その疲れを露ほども見せず、淡々とハレムのマネジメントをこなしている。社会人すげえなあ、という感想しか出なかった。ものすごい絶倫だ。
絶倫というものはもともと精力の底無しさを表す言葉ではないにしろ、もしそのような意味を当てはめてみたとしても、一般的に絶倫と呼ばれる人たちは個人の天性の精力であるとかどれくらいの時間勃起できるかなどという事によってでは多分なくて、恐らくスタミナをいかに上手にマネジメントするかで絶倫の名をほしいままにしているのだと思う。古代の英雄たちは概して経営者のマネジメントの偶像になり得るし、ということはつまりは同時に絶倫だ。うわあ、目の前にカエサルがいるよ。絶世の美女たるクレオパトラを抱くという至上の官能に浸りながら、その背中でiPadを弄りローマ独裁官としてのタスクをこなしていたのか。やっぱりすげえなあ。
多分ハレムでは、愛情の深さなどという見えない指数は全く価値を持たなくて、夫の持つ、貴重で不可逆性を孕んだ時間というものを、妻たちへとどれくらい割くかをマネジメントするかが重要になるのだと思う。金銭というものもそうだけど、それも結局は時間に付随してくる概念で、同じものであるように思われる。
 
改めて見渡すと、だいたいの人間が似たような事をやっている事に気づく。ハレムのマネジメントは、どうやらその一形態でしかなかったようだ。
僕が最初ソーシャルゲームというものをやった時、すぐ飽きた。それでだいたいこのような感想を持った。なんだこりゃ、こんなものに没頭する人間は最低限の思考能力すら欠如した大馬鹿だよ。こんなのゲームじゃない。どうやらその感想は半分正しかったらしい。これはゲームではなくて、社会の歯車の必要条件をその前提に要求する、ソーシャルセルフマネジメントツールだ。この今適当に組み合わせたカタカナ語の羅列がどういう意味なのか僕だって知らないけれど、多分これが一番適切な呼称だ。ソーシャルセルフマネジメントツール、そう考えると、スーツに身を包んで、いかにも真人間の社会人ですよといったふうの人たちが端末を弄り続けているのもさほど奇怪な風景でもない。
 
満員電車の中で、どうやら人間になるにはマネジメント能力が必要条件らしいなと僕が気付いた時には、みんなもうとっくにマネジメント能力を身につけていた、という、今はそういう笑い話らしい。
 
社会の歯車という言葉が発せられる時には大抵侮蔑が含まれている気がするけれど、しかし歯車になるというのも大変高度な工程を必要とする。極めて精巧でなければすぐに機械の調子が狂う。歯車の素材も、脆ければもちろん話にならないが、他の回転の歯を身に食いながらも、それをエネルギーにして十分に受け流すだけの弾力を持った硬さでなければならない。天性でそのような素材の時もあるだろうし、辛抱強い冶金術によってそのような素材へ変貌することもある。さてそのような歯車になれない劣悪な素材どもは大変で、じゃあどうするかというと、僕は「すっぱい葡萄理論」でなんとか糊口を凌いでいる。あんな歯車の生活なんてまともなものじゃない。どうせ不幸に決まってる。ところでその後の身の処し方はどうしよう?歯車以外のこの素材の使用先が見つかればいいが、それとも自ら溶鉱炉に飛び込んでやり直すしかないか。
 

満員電車、みな各々の端末に没頭し、十全にタスクをこなしている中で、吊革にすがりながら、ただひたすらぼーっと窓の外を見ながら非生産的な駄文の構想をしている。“社会不適合者”という題の戯画を描くとするなら、多分こういう構図になる。