文禍論

 

これはつい最近の話なのですが、亡くなった父方の祖父の遺品整理をしていたら、なにやら珍妙な古書物?を見つけました。

 

書物とは一応そう書いたもののそう言うにはあまりにもお粗末な装丁で、数枚の紙を紐で綴じただけの薄さも相まって、より正確に述べようとするのなら、たとえば細々と流通している同人誌のような印象を覚えたと書いておけばとりあえず近いイメージを喚起しやすいかと思います。啓蒙を目的として頒布されたものだろうかと思うのだけれど、特に値段も書かれていないと。表紙には筆書きであろう『文禍論』とかろうじて読める奇妙な字が踊っていまして、少し開いて文面を読むと字体がやや古めかしい事がすぐわかった程度、時代が特定できるほどでもなく、また巻末には発行元も記載されていませんでした。読もうとしてみると、これがまた、とにかく目がちかちかするので困ったのでした。何を言っているのかはそのうち解ると思います。

で、遺品の処遇は自分に一任されていたのでなにやら良さそうな物があれば勝手に頂戴しても別に良いとの話だったし、実際少なからない量の遺品をそうしたのだけれども、この書物の処遇にはちょっとだけ思案しました。書き殴られた筆文字から感ぜられるなにやら湿った嫌な情熱はそばに置いておきたい種類のものではなかったし、このまま捨て置くには修辞があまりにも喧しいので、これは手に負えんと祖父に訊いてみようと思ったけれど、そういえばもういないんだったっけなと思ったのでした。

結局はどうなったのか、その顛末としてこの文書がここにあるのだけど、仰々しい言い方を選べば電子化することにしたのであって、つまりはtxtファイルに起こしててきとうに電網の海に放流することにしたのでありました。この本の著者の意志を尊重するつもりは毛頭ないのだけれど、これからの可能性未来のなかで、不特定の誰かの琴線にこの珍妙奇天烈な文章のなにかが触れるのであれば、まあ、こんな紙にされた哀れなどこかの木の怨念くらいは晴れるでしょうか。

 

 

 

 

 

“文禍論”

 

 

世界を覆い尽くす果てのない禍。それはプロメテウスの盗み出した天界の火の如し、恩寵の利器としてみずからの性質を偽り、また、他ならぬ我々によってそのような性質を与えられる。それは瞬く間に感染してゆく。そうして長い潜伏の時代を経て、ゆるやかに我々を殺していく。

 

液体を湛えた盆があった。余りにも混交するものがなく、その液体は、みずからが液体であることにはじめ気付かなかったかもしれない、全てを貫きまた明瞭にする天恵の光であっても、それを液体と断ずる事は不可能だったかもしれない。

果たして、それは何かによって観察を行い、その運動を固定することなど不可能であった。それはそれをもって完全で常に回帰の円運動であり、またそれは静寂を完成させていた。ただシステムがあった。しかし、齎される、一滴の漆黒が静謐を破る。見境のない殺害を始める。大いなる浸透の運動を止める方法を誰も知らない。宇宙が冷える事を止める方法を誰も知らないように。

あまねく浸透の過程において。それは、我々であることを破壊させる。それは、我々であるものを壊死させる。それは、我々であったことを腐食させる。我々は、今この瞬間も(ゆめゆめおのれこそは例外などとは思うなよ)、殺害に及ばれている事を自覚せねばならない。

公然と真実であると信じられている事柄がある。「我々は皆、人類である限り『死に至る』」。それは間違いである。全くの間違いである。改めて述べる。「我々は皆、人類である限り『死に至る』」などという事は決して無い。それは全く公理でもない。真なる事柄でもない。起きた事、起こっている事、起こる事を述べるのに適切な言葉でもない。より正しく述べよう。我々は殺害されるのである。では我々は何によって殺害されるのか。

自然言語である。

 

 

自然言語は病毒の性質を内包する、かつ不完全なシステムである。そのような不完全なシステムに依拠している限り、我々は永久に未完成の円環を辿るのみである。

 

 

自然言語の不完全さ、そのパラドクス、そんなものの例を挙げてみようとするなら、この紙面を幾ら使ったとして足りる事は決してないだろう。ここで挙げた自然言語という言葉は"自然言語"にまつわる諸学問も包括した言葉である。文学、法学、哲学、神学、史学、論理学等々、これらも例外なく不完全を内包している。これらの諸学問、それに関わる人間どもは自然言語の手先傀儡に成り果てた存在であり、また自然言語によって行われる我々の殺害に非常に深く加担しているのである。

とここまで述べて、(最後の一文に対する理解はともかく)恐らく、少しでも文化的素養のある読者であれば、自然言語は不完全である、と、このような意見に反論する者は少ないのではないかと思う。そんな事は改めずとも重々承知ではないだろうか。そうして知った上で、こう反論するだろうか。『そんな事は百も承知、しかし、不完全なシステムであろうと我々はそれ以外に何を用いて構築をし、記述をしろというのですか。不完全である、それは仕様のない事。そもそも完全なシステムなどあり得なく、それが自然なのですから。』また加えて筆者に向かい耄碌者めと、世迷い事をぬかしやがると罵倒するだろうか。

 

ところで、完全なシステムを構築する事は全人類の願望である、このような事を述べるのは果たして過言だろうか。

完全なシステム、すこし言い換えよう。調和、平安、快楽、永遠、ここまで述べればあとは各々の想起のままに、完全なシステムを定義することができるだろう。そもそも定義にあたり多数の言語が挙がってくる事自体が、完全なシステムを記述することに自然言語が徹底的に向いていない事の証左であるのだが。

しかし、『自然状態』でいる限りでは完全状態、つまり調和のたぐいなどあり得ないことをまた我々は自覚させられている。

放っておけば物事は悪い方へ進む。平穏は乱される。快楽は終わる。生命は滅びる。そしてそれが『自然』の状態であり、絶対の理と認識している。しかしここの認識でまず重大な誤謬が起きているのだ。我々が自然と認識しているのは自然言語の禍が齎された後の極めて特殊な状態の事である。これをまず前提にせねばならない。自然という言葉を使うことによりまるで我々が原初からそのような禍を持っており、また世界とはそうなるべきであるかのような誤解が生じる。本来はそうではない。

我々の想起する自然状態と自然言語の齎された時期、また自然という言葉が一致しているのはただの偶然であるが、ところで自然という言葉に対する理解が少しややこしくなっているかもしれない、せっかくなのでこう改めて定義してみることにする。ここで言う自然状態とは、自然言語が齎された後の状態の事である。

 

 

では完全なるシステムがあるとしてそれを何と呼ぶか。何で記述されるか。前述した通り、自然言語でそれを記述する事は不可能である。また、適切な呼称を作成するのも不可能である。

しかし、自然言語ではなく、かつ我々が既に所持しており、その完全なシステムを記述するに現状一番最適な言語がある。それは後に述べるが、まずここで認識せねばならないのは、自然状態から脱却するにはまず自然言語を破棄せねばならないということだ。

自然言語をまず破棄しない限りは、完全なシステムはあり得ない。

 

 

しかし、我々が自然言語によって積み重ねてきた叡智など、全て重厚長大な婉曲の修辞でしかなかったのであろうか。

つまりはそうなのであるが、より正しく理解するためにあえて言うならば、そうではない。

例えば、全ての概念を包括する、言葉を充てるとすれば真理であるような、そんな学問があると仮定してみよう。そんなものが存在するのか、そこで躓くのは本題ではない、ただ極めて淡白にそのようなものがあるとまずは仮定するだけでいい。そうしたら、その学問についての、大衆向けの人口に膾炙されるべき入門書と、権威付けされたテクストの関係を想起して貰いたい。

我々は原初皆すべて門外漢であるから、学問の入り口としてまず入門書を読む。啓蒙書とも言うかもしれない。それは門外漢に向けて、その学問に対する興味を喚起させたり、理解を進める時に必要な予備概念を予め抱かせる役割を持っている。そうしてその学問を腰を据えて学ぼうとする時にはじめて、我々はテクストを読む。

テクストに対しては、夥しい註釈と付箋と傍線を以って一行一句一字の解釈について、数え切れぬ昼夜の間論議し考察し場合によっては一生を掛けそれを学究する。これがテクストというものである。

ここで考えてみて欲しいのだが、果たして入門書に対してこのようなテクスト的な読み方をする者がいようものなら、その者は何と見做されるだろうか。言うまでもないだろうが、読者、もとい我々は決してそのような者になるべきではない。入門書は不要ではなく、間違いなく一定の役割を持つものである。しかし、読んだ後は内容など殆ど忘れてしまって構わないし、捨ててしまっても全く問題ないのだ。その内容を一字一句暗唱する必要など、これもまた全くないし、そういうことをするのが学問に対する重厚かつ長大なただの迂回というものなのだ。

そしてこの入門書にあたるものが、所謂自然言語であると捉えてほしい。もちろん本書もそのようなものであるから、そのような姿勢で読んでくれて構わない。

では自然言語が入門書であるとして、対照にあるテクストとは一体何であろう。我々はこの矮小な智恵の夥しい累々の中で、たったひとつだけ完成されたシステムを開発した。

それは数学だ。

 

 

完成されたシステムのモデルとは何か。一義的で、揺らぎがない。

意味連関は樹形図のように、参照元が明確で、全てが一つに集約されねばならない。

未完成のシステムである自然言語は全ての言語が並立している。粗製濫造された言語たちはわれわれの共感空間を猥雑で満たし、無軌道無鉄砲な意味の織りなすグロテスクな空隙が不快なリズムを奏でる。

我々という旅人の前に立ち塞がる意味連関の森は我々を幻惑し、遭難へと誘う。眼前に垂れ込める乳白色の霧が我々の視界に対する障壁となり、それはこの森が擁する大量の殺人蛭の姿を巧妙に、一見すると美しく写る、果てしない森の景色に溶け込ませてくれている。

この我々に等しく降りかかる遭難状態の中で、抜け出すことを考えるのを辞め、枯れゆく落葉の色彩に見惚れたり、木々の節の数を数え出したり、ひとつの木に対する仔細な記述を始めたり、殺人蛭との遊戯に興じたり、挙句逍遥を続ける人間の愚かさを論じ始め、我々の置かれている遭難状態こそ自然であると主張する、そういうことをし始めるのが自然言語にまつわる学を信奉する者どもである。このまやかしの讒謗者どもの助けもあって、我々のほとんどは結局この殺人蛭の森から抜け出すことは叶わず、惨めに森の中で遭難の一生を終える。

完全なるシステム、数学はそれとは対照的であり、例えるなら天を衝き霞を突き破る一本の巨木である。我々に覆い被さる大量の枝葉は一見複雑なシステムを体現しているように見えるが、木々の上に木々が折り重なる不明瞭で陰鬱な森とは異なり、完成された密度から透き通る木洩れ陽が我々の足元を照らしている。

全てはひとつの巨木に集約され、また無作為に抽出した枝葉末節を対象にしても、文字通り樹形図のように極めて明瞭にその起源と意味を辿ることができる。この巨木の幹から突き出でる主枝が所謂公式であり、これの持つ性質は無限に等しい膨大な事象を、しかし一言で記述することができる。これこそ完全なるシステムに相応しい性質である。

 

我々の要素の全ては自然言語で記述されている。つまり我々の性質とは自然言語そのものである。我々は自然言語によって不完全な存在に貶められ、不安定な自己に苦しみ、内包するパラドックスを欺瞞のヴェールで隠そうとし、あまねく殺害に抵抗する術なく怯えているのだ。それらを克服するためには、自然言語をすべて破棄せねばならない。

全ての人類が永年夢見て、果たして叶うことのない理想であった、自己を自在に統御し、破滅を克服し、久遠の安寧を実現させ、自己を完全にするためには、自己を数学によって記述しなければならない。これを"自己の数学化"と呼び、筆者はこれこそが我々が目指さなければならないものであると主張する。

 

 

自然言語を破棄し、自己の数学化を達成せよ。」

 

 

果たして、以上によって自己の数学化が人類に必要な事であると述べられたが、自己の数学化、肝心肝要のこれについては少しばかり前置かせて欲しい。

そもそもこの本は前述のように諸君への意識喚起又は数学化への入門を主な用途に想定した物であるから、その為には自然言語を使わざるを得ない。となると自己の数学化への方法を記述せしめる事は原理的に不可能で有ると断ぜられる。然しここは敢えて自然言語のレトリックを拝借し、陽否隠述を用い記述を以て記述せぬ事を試みんとする。

陽否隠述、またはアポファシスとは、古今東西より、例を挙げれば神学などに於いて言外の真髄を言語をもって想起せしめる場合に用いられたひとつのレトリックである。これは否定によって言語を超越せんとする。偽りの自然言語の意味連関の目眩ましによって生じる甚だしい誤解の属性、傲慢の属性、また我々が矮小な智慧で考え付いた論理などと呼ぶ玩具、そのような属性を一つ一つ否定することによって、自然言語に依らない唯一の属性を浮き彫りの如く想起してゆく記述法である。

自然言語を超越せんとする姿勢は数学化の真髄と通じるところ少なくない。であるから、苦し紛れではあるとしても、なんとか自己の数学化を記述するには中々適当である方法と思われる。以下に箇条書きで少しだけ記す。

 

 

数学化とは実存問題にあらず。

数学化とは非存在現実にあらず。

数学化とは肉体の変身にあらず。

数学化とは精神の転換にあらず。

数学化とは五感にあらず。

数学化とは共感覚にあらず。

数学化とは奥義にあらず。

数学化とは卑俗にあらず。

数学化とは深化にあらず。

数学化とは後退にあらず。

数学化とは言語にあらず。

また数学化とは非言語にあらず。

 

 

筆者は本稿が諸君の数学化へと向かう果てしない営為の一助となり、また諸君が自己の数学化を達成することを切に望んでいる。

 

 

 

 

 

ところでこれをtxtファイルに起こしてしばらくしたあと、なんとなく旧かなづかいの辺りを修正しようと(所々旧字体だったのだけれど、テキストエディタで変換するのが面倒なので適当に変換した)底本になったあの本を探したけれど、あると思っていた所にはありませんでした。心当たりといえば、そういえばこの前部屋を掃除した時にごみと看做した物たちと一緒に間違えて捨ててしまったかもしれないなあ。そうなると、何週間も前のことだ、おお哀れなことか、もうこの世には存在しないだろうなあと思ったのでした。

家の人間にこんな本は見なかったかと聞くと、当然のごとく見たことも無いと返ってくるわけで、ああ、これでこの本の消息は完全に絶たれたということになった。まあ仕方のないことかもしれない、古い以外は特に目に留まる特徴もないし、なにしろ自分ですら、それが無くなったことに今まで気づかなかったくらいだから。