革命のともしび
チェという煙草を買った。
物珍しさに一箱買った。
キューバ産の無添加の葉を使った煙草らしく、味はそれなりに好みだった。普段吸っているアメリカンスピリットよりも少し渋い。値段もいい感じで、アメリカンスピリットより安い。
そんなわけで、アメリカンスピリットとチェの間で揺れ動いている自分がいる。これは中々面白かった。ゲバラを取るか?インディアンを取るか?いやいや、けっこう重大な問題だ。でも結局、僕は革命の精神よりもアメリカの魂に擦り寄った。結果としてそうなった。
アメリカンスピリットのほうも、常々思ってはいたけれど、インディアンの絵をプリントして堂々とアメリカンスピリットと銘打っているのが面白い。いかにもアメリカらしくて、馬鹿馬鹿しくて、でもそういう所が結局嫌いになれなかった。
夢と理想と全能感に若い身体を委ねたことのない人間は嘘だ。嘘ばかりの人間は嫌いだった。格好だけ一丁前につけて、ことば巧みに、嘘ばかりついて、ふわふわと浮遊している人間は大嫌いだった。
そういう青春があった。それもそんなに昔の話でもなかった。
ただ、そういう、革命であるとか、理想の限りを滾らせたような言葉に、いろいろな物が追いつかなくなってゆくのを、なんだかぼうっと見てみたり、あるいは足掻いてみたりする、次は多分そんな青春が来る。
ルクセンブルクといえば、The SmithsのAskにこんな歌詞があった。
蒸し暑い夏の日、部屋にこもって、ルクセンブルクの出っ歯の女の子へ送るための、ぞっとするような詩を書いている。
僕のあの時の青春は、大体こんな感じだった。
しかし、青春そのものが終わったわけでも、別に大人になんてなってはいないし、多分また別の青春が来るだけなのだろう。終わるもんかよ。それでどうせまた、何年かしたらこのように回想して、そういうことかと理屈をつけて、どこかに落ち着けるだけなのだ。だったらいい、せめて恥ずかしがらずに過去を愛せばいいんじゃないか。まずはそこから始めよう。どうせいつまでたっても、青春以前の子供のままなのだから。
チェに火を付け、まだ見ぬ青春に向けて、そんなぞっとするような詩を書いてみる。