6.17

 

 

 
早いもので、にじゅうのさいになって、だいたい一か月と少しが過ぎた。なにかが十九から二十になる、さてそれで変わったことといえば、こそこそと人目を避けて立ち飲み屋か深夜の公園でしか飲まなかった酒が、家人の前で堂々と飲めるようになったくらいのことしかなかった。それよりも、幼さ、未熟さ、世間知らずさをより痛感する。そんなものは関係なしに、肉体の節目として、不作法に国民の義務が投函される。肉体は放っておくとどんどん遊離していく。僕はどうしようもなくひよっこで、若僧で、無学であるというのに。
そこから脱却するために勉強するのだろう、という言説には陳腐すぎて耳を傾ける気にもならない。そんなものは当たり前だ。誰だって勉強している。それは未来志向型の問題だ。僕がほんとうに問題にしているのは、僕の今だ。お前らが今更一顧だにしない、お前らが二十だったころのお前の眼前の話だ。お前らが嘲笑い、封印しているところの、お前の二十の話だ。あまりにも当たり前のように、過去を現在から乖離させる。足蹴にして切り捨てる。井の中の蛙が井の淵に手をかけると、大海の蛙どもに指を踏みにじられて唾を吐きかけられる。やい、くそカエル、そこは滑るぞ。何が悪いんだ。世間知らずのうちしか、世間知らずでいられないじゃないか、ばーーーーーか。
と、そういう姿勢を取れればいいが、考える暇もなく、ただ無言の激しい殴打だけがある。
 
 
肉体はちっぽけで、か弱くて、幼かった。しかし、肉体はその肉体のものだった。細胞が強く結合し、お互いの対称性を強く認識していた。そこには流動性がなかった。経絡がなかった。
外部性のなにかが細胞間の結合に鋭利なメスを入れて、細胞どうしを無理やり引き剥がす。そうして、肉体にチューブを突き刺して流動性を注入する。激しい流動性のなかで、細胞は伝統的な静止的関係を終え、回遊し、新たな経絡を作り出してゆく。肉体は変質しながら、どんどん巨大化してゆく。チューブを通る流動性はどんどん速度を増してゆく。細胞もどんどん回遊の速度を増してゆく。結合するよりも引き剥がされる時間の方が増えてゆく。細胞はスープ化する。皮膚一枚だけが辛うじて肉体をかたちづくる。ぶよぶよの肉体は最早自分の意志では立ち上がれない。蹴られたら、蹴られた分だけ凹む。蹴られなかった方は、蹴られた分だけ盛り上がる。それを反射的にただ繰り返す。
こうして肉体は、チューブのものになる。流動性のものになる。もうチューブを外すことは出来ない。チューブの圏内から出ることは出来ない。巨大な肉体からチューブを外したら、スープ化した細胞たちは結合を維持できなくなり、崩壊してしまう。そのうち、細胞間を流動性で満たしているのが、流動性間を細胞で満たしているようになるのかもしれない。肉体は浮遊して、その領域はどんどん溶けはじめる。
肉体の末路はわからない。僕は見たことが無い。
 
 
ただ若いということですべてが片づけられる。悔しいが、しかし特権でもあるのかもしれない。そういう意味では僕は羨ましがられている。それを盾にして、謙虚に、傲慢にしてやろう。恥をかくことは何も怖くないが、無知のままでいるのは怖い。まあ取り返しがつかなくなるのも怖いが、最終的に死ねばすべての取り返しはつくのだから、そんなものはどうとでもなるだろ(。◠‿◠。)
 
遅ればせながら、誕生日おめでとう。君の上に祝福がありますように。