6.13

 

 

 
別に今はじまったことでもないけれど、自分の才能の無さ、矮小さ、くだらなさ等々を痛感する瞬間はやはりよくある。自分のしたものを見て、なんだこの程度かと思う。自分ではたいした事をしたつもりでは勿論ある。しかしやっぱりたいした事はないのだ。そうして俊英たちの著書を読んで、自分との比較でさらにへこむ。めちゃくちゃにへこむ。あまりにもへこむので、気を紛らすためにお酒を飲む。じゃぶじゃぶ飲んで、ヘッドフォンをかけ、お気に入りのアニメを流す。酩酊した頭に声優さんの暴力が沁み渡る。それでそのまま泥のように眠る。そうして翌日の平日午後に起きた時の気分なんかは、もう、やばいくらいに最高である。また酒に手を伸ばす。
 
才能のなさを実感するが、しかし僕が才能の無さを痛感させられた対象だって、なにかにつけて自分の才能の無さを痛感しているのだ。僕はそれを、一種の謙遜だと思っていた。僕からすれば胸がむかむかするような、煌煌と眩しく主張する巨大な謙遜にしか見えなかった。しかし、どうもただの謙遜だけでもないらしいと、最近になって分かってきた。もしかしたら本当に、彼らだってなにかにつけて自分の才能の無さにへこむのかもしれない。だとすれば、一握りの人間を除けば皆劣等生じゃないか。何を恐れて縮こまる必要がある。どうせ劣等生ばかりなのだから、劣等生なら劣等生らしく二流の素質で二流のパフォーマンスを十全にやっていればいいだけの話なのだ。
考えてみれば、世の中は二流三流のパフォーマンスで溢れている。ほとんど顧みられないような仕事、だれも興味を持たないような研究、だれも読まないような文章、だれも見ないような絵画、がひたすら氾濫している。量が多すぎて目眩がする。なんでこんなに沢山あるんだ。どうしてお前らは一流の人間の真似事ばかりするんだ。三島由紀夫がいて、中島敦がいて、どうして文学なんかをやろうとする。お前の文章なんかよりも、三島由紀夫を読んだ方がいいに決まってるじゃないか。平田オリザがいて、どうして芸能なんかをやろうとする。フンデルトヴァッサーがいるのに、どうして建築なんかをやろうとする。…だが、恐らくそれでいいのだ。
それらの仕事はあくまでも二流だが、その中に肉体の芯が通っているのなら、やはりそこには一分でも何かの霊性が宿っているのだ。霊性を動かすのは霊性しかない。それは一流の仕事や文芸のように、それだけで多くの人間を激動させるには至らないかもしれない。しかし、二流の仕事たちのなかの、色彩のひとつひとつが網膜のシミになり、記憶の残滓になり、ニューロンの一経絡となり、そうして諸要素が個々人にとってのアトランダムと、その結実としてのミニアチュールをかたちどる。そういう魅力的な揺らぎの一分として、二流三流の仕事たちはある。一流の仕事だけで構築された世の中があるとすれば、一分の揺らぎもない、息が詰まるようなディストピアでしかないだろう。
 
しかし誰であれ、自分こそは一流でありたいし、一流であると信じていたいものだ。そういう矜恃がないと、三流の仕事ですら生み出すことができない。そして、これこそ一流であるという意識が片隅にでもあるような仕事は、やっぱり歯応えがあるし、掬する所も大いにある。そこからふとした拍子に、一流の仕事が生まれてくるのかもしれない。
もちろん僕だって、自分こそは一流の人間であるとやはりどこかで信じている。本当は一流どころか三流四流なのだが、まあ、自分はやっぱり本当は一流なのではないかとか、ある日突然一流のなんかになるのではないかとか、そのくらいの幸福な無知の一片を心の隅に持ち続けたって、別に誰に咎められることもあるまい(*^◯^*)