6.6

 

 

大学の学部に入ってみて、果たしてここで扱われている学問という言葉の意味とは一体何か、哲学の意味とは何か、というなんとも月並みな疑問を抱いていた。どうも、僕が了解しているような意味では使われていないな、という事を学科の人間と話すたびに実感するのだ。しかしようやくわかったのだけれど、ここで使われる学問とは、知識で相手の脳みそを殴打してノックアウトするためのテクニックという意味だ。格闘技が相手を打ち負かすという目的意識のもとに厳格に体系付けられているように、アカデミックも同じような目的意識のもとで厳格に体系付けられている。一見には意味を了解できないような稽古が相手を倒す段階になって密接に肉体の操作に結びついてくるように、学部で強要される意味のわからない講義も、最終的には学位という普遍的で強力な脳味噌殴打用の鈍器の一部を成してくるのである。そういう前提が共有されているから、彼らはいかに馬鹿げていて興味のない講義であっても、眠い目を擦りながら出席カードを出すことができるのだ。

さて、またまた、相変わらずの愚鈍な僕がそういうことに気付いたのも最近の話であった。学問というのは相手の脳味噌を殴打し、ノビた相手の懐から金品を掠めるために修得するものらしかった。彼らがいったい誰を打ち倒したくてたまらないのかは、僕には皆目見当がつかないが、ウソ、だいたいわかるけれど。
 
どおりで、学科の人間の大多数に話しても、打てど響かずなわけだ。僕はお前に聞いてるのであって、ショーペンハウアーに聞いているわけでも、お前の最近読んだ本の抄訳に聞いているわけでも、Wikipediaに聞いてるわけでもないのに。というような事を思っていた。それも当たり前だった。そもそも在籍する目的意識からして、僕は大間違いを犯していたのだ。
彼らと話しながらどうでもいい哲学や神話の受け売り講釈を向けられるたび、僕はこいつらに付き合うくらいならWikipediaでも読んでたほうがマシだと思っていた。しかし、その程度の理解だから僕はダメなのだ。あれは、ほんとうはスパーリングを申し込まれているのだった。そして僕は、相手の立ち振る舞いに格闘の構えを見出して即座に臨戦態勢をとる事ができないようなズブの素人のごとく、スパーリングの相手にすらならない存在でしかなかったのだ。それにつけても僕の矮小なことよ。
だとしても、もう少しわかりやすくしてくれたっていいのにとも思う。そんな回りくどいことをしなくても、お前が後ろ手に隠し持っているハードカバーの単行本を振りかざして僕に直接殴りかかってくればいい話じゃないか。そうすれば僕だって少しは対応のやりようがある。僕は、ぶっ倒されて金品を巻き上げられるか、低身平伏して金品を根こそぎ差し出すかを選択できるし、相手にとっても話はもっと迅速に済む。お互いにWin-Winの関係だ。
 
さて、改めて考える、僕はどうしてこの学部にいて、学問のまねごとなんかをやろうとしているのか。相手を殴打するためのテクニックを身に付ける気がないのなら、いったいどうして学問なんかをやろうとするのか。僕はまったく答えられない。僕は黙って殴打されて、頭から血をだらだら垂らしながら倒れる。遠のく意識の中で、走馬灯のように空白が走る。なにもない。なにも。