矢澤にこ誕生日記念のSS

(私が矢澤にこちゃんの誕生日に合わせるようにして書き上げた、ラブライブ!の二次創作の妄想小説です)


「あ~~!もう!雨降りすぎだよ~!」

見上げれば一面の曇天。梅雨明けにも関わらずしつこく降り続ける雨をファストフード店の窓から横目でちらりと見、穂乃果がふくれ面で言う。
「仕方ないですよ。暦の上では梅雨が明けたとはいえ、それすなわち、雨が降らなくなるという事ではありませんから」
「そんなこと知ってるよ~、穂乃果のことバカにしてるでしょ!もう、海未ちゃんはそーゆートコロいちいちうるさいんだから~」
「う、うるさいって穂乃果...私はただちゃんとした事実をですね..」
穂乃果の言葉にむっとする海未をまあまあ、と凛が宥める。
「穂乃果ちゃんがそう言うのも仕方ないにゃ。凛たち最近雨続きでお外で目一杯体を動かせなくて、う~んとウップンが溜まってるんだにゃ」
「そうだよ!穂乃果たちは、この感情をどこにぶつければいいの!海未ちゃんっ!なんとかしてよ!」
「なんとかしてって、あのですね、私は神様じゃないですよ!」
「はあ、バカねーほんとに。天気の事をここでどうこう言ったって、そんなのどうしようもないでしょーが」
呆れ顔のにこがポテトをひとつつまむ。
「それにアンタたち、トップアイドル目指してるんなら、どんなコンディションでも文句を言わず、自分のベストの練習をする!こ・れ・が、一流のアイドルってものでしょ、そんな事もわからないの?まったく」
と、穂乃果をポテトで指して険しい顔で言うのだ。
「ふわぁ~!流石にこ先輩...なるほど...フムフム...」
花陽がどこから取り出したのか、ペンとメモ帳を取り出してにこの言葉をメモする。
「む~、そんな事言って~!そーゆーにこちゃんだって今日の練習の時、どうせ雨が降ってるんだから室内でのダンス練習なんか程々でいいわよ、って言ってたじゃん!」
「えっ?そ、そんな事言ってたかしら...」
「絶対言ってたにゃ!凛もその言葉、この目この耳で、ちゃんと見た!聞いてたよ!」
「う....つ、つまり、アイドルたるもの努力のペースの配分をしっかりして、手を抜く所はちゃんと手を抜く必要があるって事よ...!」
「えー?さっきと言ってる事違うよ~!」
「ええ~い!うるさ~い!!」
「あー!開き直ったにゃー!」
「しかし、にこの言う事にも一理あります。全力を出せない時は無理をせず、出せる時に全力を出すのがやはり重要です。そういう練習プランを立てましょう!具体的にはそうですね、たとえば休日はみんな時間がいっぱいありますから、体力作りのためにランニングを毎週20kmづつ、そしてこれを一日に二セット...」
「「「えええ~~~!?」」」
「あはは、海未ちゃん、それはちょっとやりすぎじゃないかな...」
海未の言葉を聞いたことりが苦笑する。
練習後の解放感あふれる夕どき、穂乃果たちはμ'sメンバー行きつけのファーストフード店で疲れた身体を癒す団欒の時を過ごしていた。真姫は勉強があるからと早めに帰り、絵里は生徒会の仕事が残っているからと言い学校に残ったので、ここには真姫と絵里を除く7人、穂乃果、海未、ことり、凛、花陽、にこ、希がいた。
年頃の女の子たちの、話すことは尽きることはない。練習のこと、憧れのアイドルのこと、おいしいお菓子のこと、可愛い服のこと、学校での授業のこと...そんな他愛のない会話を友達と積み重ねていく事が、ただひたすらに楽しい。そんな特別な、もっとも、それが特別であったとわかるのはもっと先の事になるのだが、彼女たちはそういう時間を享受する事を許されている、そんな誰にでもあった運命の女神に特別に愛される期間を、たった今過ごしているのだった。
「そういえば希ちゃん、さっきから黙っててどうしたの?」
黙って喧騒のそとでその様を眺めている希を、ことりが怪訝そうに見つめた。
「ううん、いや、なんでもあらへんよ?心配してくれたん?ありがとうな」
希が微笑んで言葉を返す。
「ただなあ、ちょっと感慨にふけってたんよ。ああいうふうに仲間と楽しそうにしてるにこっちを見てるとな、ちょっと、昔のにこっちを思い出してしまって」
「むかし?」
希はにこを見ながら、ひとり思い返していた。そういえば、ここに、9人のμ'sができるまでに、いろんな事があった。ほんとうにいろんな事が。様々な人間の、様々な出来事の、様々な巡り合わせがあって、いまこうしてこのひと時がある。たとえそれがただの偶然の積み重なりであったとしても...希はやはり、そこに運命という、なにか特別なものを感じずにはいられなかった。特別な九色の、運命の糸の撚り合せ。そんな運命といったものがもしあるとするなら、それはずっと前から始まっていたのだろう。たとえば、そう、わたしが音ノ木に入学したばかりの、ちょうどあのころから....

 

 
◆◆
 
「や、にこっち!」
「あれ、希じゃない。なあんだ、あんたまでオトノキなの....これも腐れ縁ってやつかしら」
「ふふ、なんたるグーゼン。いいや、これは間違いなく運命!ウチとにこっちは、運命の糸で結ばれてるのかもしれへんなあ?いや〜ん!やんやん!」
「ちょっと、ヘンな事言わないでよ」
新学期、そして新しい学校生活。国立音ノ木坂学院の新しい一年生たちは、その胸にいろいろな思いを抱えながら、音ノ木坂学院の校門をくぐっていった。知っている人を探す者、友人となれそうな人間を探す者、ただただ緊張の面持ちで周囲を見回す者...見上げれば満開を少し過ぎた桜が新しい音ノ木の学生たちを祝福するように降りしきる空の下、様々な感情が交錯する中庭の中で、希は中学からの同級生だったにこの姿を見つけたのだった。
「にこっちも、結局オトノキに入ったんやね」
「うん...まあ、そういう事になるわね」
意味ありげに言葉を吐くにこをさして気にせずといったふうで希は続ける。
「UTX学院に入って、スクールアイドル目指すんじゃなかったん?」
「アンタ、やっぱり遠慮なくそういう事聞くのね....はあ。ま、受験、ダメだったのよ。だからここに入ったの。ちょうど家からも近いしね」
にこが少し笑いながら言う。
ここ東京で、本気でスクールアイドル活動をする、つまりは全国のスクールアイドルの祭典「ラブライブ」に出場する程のスクールアイドルになるためには、学校を挙げてスクールアイドル活動に力を入れており、そしてなおかつ一番実績があり、ラブライブ出場グループを多数排出する、いわゆる『ラブライブ常連校』私立UTX学院に入学することが最良の選択だった。にこもそれを知ってUTX学院に入学するために受験勉強をしたのだが、スクールアイドル先進校であると同時に都内有数の進学校でもあるUTX学院に入学するという事は果たして容易な事ではなく、結局にこは受験に失敗し、ここ国立音ノ木坂学院に入学することと相成ったのである。
「そっかあ~。それはドンマイさんやね」
「はあ、ドンマイさんってアンタねえ...」
「でもオトノキも、UTXに負けんくらいいい学校よ?校舎もうーんと広いし、歴史もあって...あと年季も入ってて...しかも古くからある伝統校やん?」
「後半は同じことじゃないの!...まあ要は、国立ったら聞こえがいいけど、昔からあるだけの実績のないしょっぱい学校ってコトでしょ。都心に増えてきたほかの私立に生徒を絶賛奪われ中で、いまや公立校統廃合ブームの煽りを受けて、果たして進退極まるとき...って感じの学校ね」
「もー、そんな新学期そうそう腐らんの、にこっち。あんまりそんな事ばかり言っとると、また中学の時みたいにわしわしするで〜?」
「うう、もうそれはやめてください...」
事実、にこの言うとおり、音ノ木坂は年々入学志願者が減っている学校だった。地元の人間も近年開校したUTXなど他の魅力的な私立を受験する子が増え、音ノ木坂はいまや、新入生は3クラスしか無い程に生徒数が縮小しているというのが現状だった。その様子を見てか否か、そして何処の誰が言い出したのか、国立音ノ木坂学院廃校の噂も、まことしやかに音ノ木の学生たちに限らず、巷の年頃の女子たちの間に流れ始めているのだった。
「それに...」
にこが俯いてつぶやく。
「ここ、無いのよね...スクールアイドル活動を、やる部活が」
「そうやねえ」
下を向いたにこの顔を、希がその豊かな肢体を屈めながら見上げる。発育の良い希がにこの隣にいると、同い年ながらその体格差から、まるでふたりが親子のように見えてしまう。
「でも、にこっちは諦めてへんのやろ?スクールアイドル」
それを聞くとにこはとたんに顔を挙げ、胸の前でガッツポーズを作りながら答える。
「トーゼンよ!一年生でも人数さえ揃えれば部活動申請できるらしいから、アイドル研究会を立ち上げて、やってやるつもり。ラブライブ出場だってもちろん諦めてなんかないわよ!全国のアイドルファンたちの胸に、この『にこにー』の名前をしかと刻みつけてやるのよ、にこ!こんなことでこのにこにーがメゲるわけないんだからね!」
「ふふふ。さすがのウチもちょーっとだけ心配したけど、やっぱりいつものにこっちやんな?安心した!」
希が笑顔でにこの背中を叩く。同級生に比べてもかなり小柄なにこの身体は、ついつい反動で前のめりになってしまう。
「わわわっ、ちょっと!もう少し優しくやりなさいよ!」
「めでたいめでたい!よーし、今日はオトノキ入学祝いとにこっちのラブライブ出場祝いや!トクベツに今日だけはウチのおごりでええよ、あとで一緒にファストフードの揚げおいもさん、食べに行こか!」
「出場って、まだ決まったわけじゃないでしょ...それに、別にアンタなんかにおごられなくたって、こっちは大丈夫だもんね~だ」
「あれれ?ホントかな?それじゃあ、そんなお金持ちなにこっちのおサイフを少し拝見させて貰おか~?」
希がそう言ってバックの財布に手を伸ばそうとすると、にこが慌ててそれを拾い上げる。
「わわわっ!やーめーなーさーいー!わかった、わかったから!今日はアンタのおごりでいいわよ!まったく...」
「うんうん、それでよし!にこっちも、中学のころに比べると、大分素直さんになったなあ〜」
「それどーゆーイミよ!」
にこが唇を尖らせて突っ込みを入れる。
しかし笑顔を崩さない希を見てか、先ほどまで険しい顔を作っていたにこは、穏やかな顔になってひとり呟いた。
「もう、希といるといちいち疲れるのよね...まったくしょうがないんだから」
「ん?今の言葉どーゆーイミ?」
「どーゆーもおショーユもないわよ!なんでもない!」
 
◆◆
 
桜の季節もついぞ終わり、はやくも音ノ木坂の校舎はむせ返るような緑に染まりはじめていた。思い出したように時折吹く風に乗って鼻腔をくすぐる深緑の匂いが、これから来るであろう、うだるような暑さを予感させるようだった。日が照りつける放課後の校庭の胸がすくような初夏の晴天の下、動かなくてもシャツが少し汗ばむような季節においても、音ノ木坂の学生たちはそんな事は気にせず、それぞれ与えられた場所でみずからの迸るかの如き青春を謳歌している。
そんな校庭の隅に、にこがひとり座っていた。練習着のまま地べたにへたり肩で息をしながら、猫の額程度の木陰で懸命に荒い呼吸を繰り返しているにこへ希は近づいていった。
「あれ、希じゃない」
「やっほ、にこっち」
気がついたにこが応えるように気だるそうな腕を挙げる。
「あんた、なんでいまの時間に校庭にいるのよ。オカルト研究会って、活動場所は教室じゃあなかったっけ?」
「うん、まあそうなんやけど、今日はフィールドワーク。太陽フレア磁場の起こすアトランダムな数値変動から生じるオトノキ周辺に降り注ぐ小宇宙放出量子力量の偏りをこれで測定して、このオトノキパワースポット偏在マップに纏めとるんよ。効率よくスピリチュアルパワーをぎょーさん貯めることができるようにな」
希はそういって両方の手に持ったL字型の金属製の道具をひらひらとさせる。希の手にする得体の知れぬ器具は、滾る日光を反射し銀色に妖しくきらりと光る。
「あっそ...まあ、アンタのやることにいちいちツッコんでもしょーがないわね、コスモだかなんだか知らないけど、そういう事にしときましょ」
「にこっちもやってみる?」
「やるわけないでしょ」
眉をしかめてにこが言う。
「それで、にこっちはやっぱりやってるんだ、スクールアイドル活動」
「そ。一年生で同志を募って、部活動申請したのよ。5人からなら大丈夫らしいから。まあ、さすがのこのにこにーでもアイドル志望の人間を4人も集めるのはちょーっとだけ骨が折れたけど、にこにーにとっちゃこの程度なんて事ないラクショーなミッションだったわね」
ラクショー、とにこは言ったが、希はそれが本音だとはとうてい思えなかった。一年生の、人脈の全くない状態からまず周囲に声を掛け、ここスクールアイドル活動が全く盛んでない音ノ木坂で、アイドル活動に興味がある人間をなんとか探し、メンバーを募り、それを4人分行う。そんな事をにこが器用にこなせるような人間であるとは、中学のころからのにこの性格を類推するに、考えづらいことであった。
「ごめんなあ、にこっち。何かウチも手伝ってあげればよかったんやけど」
「へ?何いきなり謝ってんのよ。気色悪いわね、へんなパワーにでも中てられた?」
「いや、スクールアイドルのメンバー、集めるの、大変やったやろうなあって」
それを聞くとにこは口を閉じ唸り声をあげた。見栄と本音との間で少し思案しているかのように思えたが、しばらくのちおもむろに口を開いて応えた。
「まー大変だったわね。ちょっと挫折しそうになったかもしんない。ま、今は集まったからいいんだけどさ」
「なにかウチが助けられることがあったら良かったんやけどなあ。例えばにこっちが...」
ウチの事をメンバーに誘ってくれたら、と言いかけて、無責任な事を口走ってしまいそうだと思い、とっさに口をつぐんでしまった。
その様子を見てにこが言う。
「例えば、もし、私が希をメンバーに誘ってたら、希はなんて答えるつもりだったの?」
「うーん....」
希は考えあぐねてしまう。
「にこっちには申し訳ないけど.....やっぱりウチも断ってたと思う....ごめんな、やっぱり、ウチは...」
「あーあー、いいわよいいわよ言わなくても。まあそーでしょーね。だと思って私も誘わなかったし、誘おうとも思わなかったわよ。どーもアンタにはアンタの今やりたい事があるみたいだし、私に無理やり付き合わせようとも思わないしね。私になんて遠慮しないで、希の好きな事やればいいのよ」
「ごめんな、ほんとに、でも....」
「あー言わなくていいわよもうっ。言いたいことはだいたいわかるから。...ホントよ?それに、希のそーゆー申し訳なさそーな声なんて聞く時間、ザンネンながら私は持ちあわせてないのよ。私はいつだって多忙なんだからね」
にこがわざとらしくそっぽを向く。気を遣ってくれているのだと思うと、申し訳なさにまた申し訳なさが重なってくる心持ちがしたが、しかしにこの言うとおりあまりしつこく謝るのも悪いと思って、なんとか声色を作り直そうとした。
「うん、わかった。なんでもあらへん。それより、さっきのにこっち、ものすっごく疲れとったけど、一体なにしてたん?」
「ん?ああ、ランニングよ、ランニング。アイドルなんだから、体力作りしないとダメでしょ?それで、みんなで校庭30周したのよ」
「さ、30周?3周やなくて?」
希が少し困惑する。
「そ。さんじゅっしゅう」
「でもそれは....すっごく...ハードな練習やんな?メンバーのみんなはちゃんとついていけてるん?」
「まーもともとただのアイドル好きって子もいるからさ、運動に音を上げる部員もいるんだけど、それに合わせてっちゃダメよね。目指す場所は高いんだから、練習ももっともっとハードにしていかないと。たかだか30周ごとき音を上げるようじゃ、トップアイドルなんか夢のまた夢って感じ。その辺、甘い子が多くてすこし困ってるのよね」
にこの疲れたような呆れ顔を見ながら、希は一抹の不安を覚えた。中学のころから、にこはみずからの夢や理想についてはけっして簡単には妥協しない性格だったことを知っていたからだ。そのためよくにこは、理想のアイドル像の意見の相違で同じアイドル好きを名乗る同級生とだって激しい口論をしたのだった。そしてその性が、不器用なにこにとって時に好ましくない結果を与える事もまた、希はよく見て知っていたのだった。
「なによ、何か言いたそうな顔ね」
にこに尋ねられて、希はなにか諌めるような事を言いそうになったが、先ほど無責任な事を口走りそうになったことをとっさに鑑みて、出しかけた言葉をすんでのところで飲み込んでしまった。
「いや、なんでもあらへん。にこちゃんがそれでええんなら...」
「ふーん」
にこが探るような目で希を見る。
「なにかあってしょうがない、ってカンジね」
と口を尖らせて言うので希はたじたじになってしまう。
「ま、いいわ。そんなことよりさ、話してるあいだに、もうこんないい時間になってるわよ。私はもう十分休んだし、あんたもなんたらマップとか、ほったからしでいいわけ?」
「ああ、そやった。今日中に学院敷地内の観測を終わらせへんと...、じゃあまたね、にこっち。アイドル活動、ウチも楽しみにしてるで」
「うん、じゃあね。希」
そう言い手を振ってお互いに別れたものの、つぎの観測地点に向かって歩みを進めている間も、希はにこの話を聞いたときに感じたなんとなくいやな予感に襲われたままだった。あのとき、何か言うべきだったのかもしれないけれど、何かを言う資格がはたして自分にあるのかどうかわからなかった。結局、胸の中のいやな予感が消える事などなかった。そして、これが最も希をいやな気分にさせたのだが、希のいやな予感が的中しなかった事など、いままで一度もなかったのである。
 
◆◆
 
二学期のはじまり、季節の終わり。紅葉にはまだ早く、緑が芽吹くにはもう遅い。夏の名残りも惜しく、再会を喜ぶ夏の気分を引きずった生徒の火照る頬を場違いな肌寒い風が荒々しくなぜて、忌まわしくも懐かしいあの猛暑の終わりを告げているのだった。
にこと希は同じ学年とはいえ、クラスも部活動も違うとなると、どうしても接点は薄くなる。新しい部の活動と、新しくできた友達との付き合いに目まぐるしく希の休暇の日々は過ぎ、そんな夏休みを終えたあとの一年生の廊下で久しぶりに見たにこの顔は、前に見たよりもなんだか少し疲れているように見えた。
「あっ、おはよーにこっち!久しぶり」
「おはよ、希」
「玄関の貼り紙、見たで、学校公開の日にライブやるんやって?」
二学期の初日、登校してきた希の目に写ったのは玄関に貼られた『アイドル研究部 初ライブのお知らせ』のチラシだった。夏休みの間も部活動の関係で運動部ほどではないにしろしばしば学校へ訪れていた希だったが、アイドル研究部の活動については、窓から見えるトレーニングの風景や、部室の前を通りかかると聞こえる何やら騒がしい物音以外は、とくにこれといった活動内容の情報が入ってくる事はなかった。恐らく活動意識の高いにこの事であるから、具体的なパフォーマンスを行う予定が立つまでは容易に他人に活動の中身を話したりはしないだろうという推測じたいはついていたものの、しかしそれでも音沙汰が無いという事は不安には違いなかったので、二学期になり玄関のチラシをはじめて見た希は抱いていた不安の深さに比例するように安堵の息を深く漏らしたのであった。
「ああ、あれね。そうよ。文化祭の前にいっぺんちゃんとしたライブをこなしておきたかったしね。学校公開の日のアイドル研究部の活動内容の正式な広報活動として、学校がわからもちゃんとライブの許可は貰ったわ、講堂の使用許可もついでにね。学校公開の日にやるなら、受験生の求心にもなるし。ま、こっちはもののついでなんだけどね」
そう希に話すにこの調子は、話題自体は明るいものであるものの、なんだかいつもより浮かなげなように感ぜられた。
「にこっち、なにかあったん?」
いやな予感が当たりませんように、と祈りながら希は聞いた。
「うーん、ま、希には隠してもしょうがないわね...夏休みのうちに、ふたり、辞めちゃってさ」
「スクールアイドルの?」
「そう」
無表情でそう返すにこに、希は何と声をかけていいかわからなかった。
「それは...」
「練習してる時に、練習についていけないってなって、それでまあ、口論になって、こんなのは私がやりたかったものと違うって、そう言われたのよ。それでひとり辞めて、それから間も無くまたひとり辞めて....それで、三人になっちゃった」
希は言葉を詰まらせてしまった。にこの性格から推察するに、恐らく本当の事だろう。別段嘘をつく理由もない。そうであるとして、それを聞いてしまった自分に果たしてなにができるのだろうか。ひとつ立場としてはにこの古い友人という事ではあるにしろ、しかしこの件については、にこのスクールアイドル活動をただ遠巻きに見ていただけの他人でしかないこの自分に、できる事も、かける言葉もあるはずなどないのではないか。
「今いるメンバーもさ、にこの目指すアイドルは違うよ、間違ってるよって、事あるごとにそう言うのよね。でもさ、わたしも間違えるつもりなんてないの。練習はわたしだって辛いし、投げ出したくなるときだってあるけど、それはアイドルになるためにはやらなくてはいけないことだからやってるの。わたしが小さいころから憧れているアイドルは、そしてみんなの憧れになることのできるアイドルは、紛れもなくいまもわたしの心の中にある。何度もその姿を刻みつけて、その姿を勇気に変えてずっと頑張ってきた、わたしの生きる指針なの。わたしが魅力を感じるアイドルって、そういうものだし、それ以外のアイドルなんてわたしは知らないのよ。それを間違ってるだなんて言われても、そんなのどうしようもないじゃない」
俯いてそうまくしたてるにこに、希はただただうろたえる以外の事などできようもなかった。長い間押し込められ鬱屈した感情の弁が、何かの拍子ではち切れたかの如き様だった。それをはち切れさせた物がはたして何であったのかについては、ついぞそのとき混乱していた希の理解が及ぶことはなかったが、それはにこの方も同じことであった。つまりそれは、にこにとって希はみずからの本音を吐露できる唯一と言って良い程の存在であった、という事に他ならなかったのだが、まだお互いその事には気づくことはない。
「なーんて、はは、何いってんだろわたし。こんなこと言っても仕方ないわよね。ごめんごめん。今の話はほんとに忘れて」
にこがはっと我に帰ったようにして手を横に降り言う。
「それで...そう、ライブ!ライブの話だった。必ず来てよね。絶対に楽しいライブにするからさ」
「うん...絶対に、絶対にライブに行くよ。にこっちのライブ、ほんまに楽しみしてるから」
ずっと言葉が見つからない希だったが、これだけは伝えたい、という思いがやっと口を開かせた。心の底からの言葉だった。
「そう、よかった。それで、まあ、さっきの事なんだけどさ、同情でライブに来るとか、ほんとにやめてよね。希はそういう事しないとは思うけどさ、一応。あくまでもひとりのお客さんとして、そしてわたしはひとりの演者として、精一杯楽しませるつもりなんだから、そういう覚悟しときなさいよ」
「うん、覚悟しとく」
渦巻く気持ちを抑え、精一杯笑顔を作り出して答える。それが今自分のできる最大限の事であると、そう思った。
「それでよし!なんか、えらく拘束しちゃってごめん。そろそろ始業の時間だから、そんじゃ、またね」
「うん、またな、にこっち」
手を振り別れていく。他人としての自分にできることは、他人として最大限、彼女を応援する事なのだろうと、そう自分のなかで納得させた。自分は他人であると、ただの観客であると、果たして本当にそれで自分は、満足なのだろうか?そんな思いがこみ上げてくるのをぐっとこらえる。それはただの傲慢であり、エゴイズムだ。私にそんな事をする資格など、ありはしない。そう自分に何度も何度も言い聞かせ、去っていくにこの背中に叫ぼうとする自分の中にいるなにかを、ひたすら押し殺すのだった。
 
◆◆
 
希はアイドル研究部の部室の前に立っていた。勇気を振り絞りドアノブに力強く手をかけたが、拍子抜けしたように何の抵抗もなく扉はすんなりと開いた。
窓際の一室、備え付けの長机とパイプ椅子が窓のほうに向かって一セット置かれている。そんなに新しい物ではない。前の部活の使い古しのものだろう。太陽は沈みかけ、空は郷愁を思わせるふうに赤く染まっている。窓から入ってくる弱りはじめた日の光を背にして、日没を目前に元気になりはじめた暗闇の中に、いつもより小さなにこの背中があった。
 
学校公開日の当日、予定された時刻に希は講堂にいた。周りにはちらほら、在校生や学校公開日に訪れた中学生を見かけ満員ではないにしろまばらに講堂は埋まっており、それを見て希は安堵したのだが、お客として無用な気遣いはナシというにこの言葉を思い出し少しばつが悪くなった。友人を誘おうとはしたのだが先方の都合がつくことはなく、結局希は一人で講堂の席に座り、閉じた幕と講堂の時計とを交互に見つめながら開演前の時間をじっと過ごしていたのだった。
ようやっと予定の時刻になった。がしかし、幕は依然下りたままであった。そのまま一分、二分と過ぎていく。周りからはなにやら不穏なざわつきが起こり、ちらほらと退席する者も見かける。希も一体、なにが起こっていのるかわからなかった。時間は間違っていないはずである。何度も確認した。
十分ほど過ぎたころだろうか。ようやく幕が上がったが、そこにあったのはにこたちスクールアイドルの華やかな姿ではなく、ひとり立って頭を下げる背の高い金髪の少女だった。希と同じ一年のリボンをつけており、話を聞いているに、どうやら生徒会の人間らしかった。本日予定しておりました音ノ木坂学院アイドル研究部のステージライブは、演者の急な都合により誠に身勝手ながら中止させて頂きます、ほんとうに申し訳ありません、という声が講堂に響き渡り、それを聞いたとたん、張り詰めた糸が切れたように講堂に集まった学生たちはおのおの不満や疑問を漏らしながら次々と席を立って行くのだった。そしてとうとう、全校生徒の収容すら可能な広大な講堂には、呆然とした希とその金髪の少女以外、誰一人としていなくなってしまった。
からっぽの講堂を見て我に帰った希はすぐさまにこを探しに立ち上がった。会ってどうこうしようと思い立った訳ではなく、ただ反射的に、そうしたのだった。そうして真っ先に見当をつけたアイドル研究部の部室のドアノブを回した先に、その姿はあった。
 
しばらくお互いに何も言わなかった。依然にこはこちらに背を向けたままであり、その表情を察する事はできなかった。それどころか、希が来た事に気付いているのかどうかさえわからなかった。希のほうもにこを探し当てはしたものの、一体何を言ったら良いのか全く考えておらず、にこを前にしてもただただ固まっている事しかできなかった。
「来たんだ」
とうとうにこが口を開く。
「ライブ、中止になったって...その、生徒会の子が...さっきそう言ってて....一体、何が....」
「辞めちゃったんだ、みんな。ライブがはじまる、ちょうどその前にさ」
にこの表情は変わらず見えない。訥々と語り始める背中からは、何の感情も読み取れはしない。
「ライブ前のリハ、それでさ、わたし、少し言いすぎちゃったのかな。二人とも、もう限界だって言って、わたしも、それなら辞めなさいって、そう言っちゃって、それで、わたしひとりになっちゃった」
にこがこちらを振り向く。薄暗闇の中で見えたのは、いまにも崩れそうな笑い顔であった。表情とは不釣合いであるはずの潤んだ目が光を湛えた。無理して笑顔を作っているのだと、けして涙を見せまいとしているのだと、そしてそれは私という"客"の前だからだという事がすぐ理解できた。そしてその事に嫌だ、と思う自分も、またいた。
「私が悪かったのかな。私が、アイドルなんて言い出さなければ良かったのかな。私のめざすアイドルなんて、やっぱり間違ってたのかな。私は、わたしは、ただみんなといっしょにアイドル活動がやりたかった、ただそれだけなのに、なんでこういうことになっちゃったんだろう、わかんないよ」
その態度とは裏腹に出る、自分を責めるような言葉の奔流から、希はにこのか細い思いを感じ取った。アイドルではない、素のままの、弱音を吐いたり落ち込んだりする、そういう弱いにこに寄り添う人が、いままでいなかったのだ。にこが被る"アイドル"という鉄仮面を、一時でも外して安らぐことのできる、そういう人間がいなかったのだ。そして、自分がそれになるべきだったのだと。考えるが早いか、希はにこの元へと駆け寄り、力強くその小さな体躯を抱き寄せた。
「わっ、ちょっと...」
にこが困惑したような声をあげるが、希はただにこを抱きしめる。
「....ごめんな、にこっち」
口を衝いて出た言葉。それを聞いて、優しく抱きとめた希の胸の中で、にこは堰が切れたように大声を出して泣き始めた。ようやっと押しとどめ、行き着く先を失っていた感情が、場所を見つけて怒濤の如く流れ始めた。挫折、当惑、絶望、懊悩、そしてささやかな安堵、そのすべてを呑み込んだ号泣は、希の胸の中でしばらく続いた。
「にこっちも、誰も悪くない。ただすこし、今だけは、運命の巡り合わせが悪かっただけ」
自分がにこに対して他人でいようと、客でいようと、そう決めたのはにこのためではなく、ただ自分が臆病なだけだった。ずっとにこを助けたかったし、そうするべきだった。ただ、アイドルという夢に向けて真剣に駆け出したにこの、あの渦巻く嵐のような眼差しが怖かったのだ。すべてを飲み込むあの青春の渦中に飛び込む勇気が、自分にはなかった。だから都合のよい他人であろうとした。自分の"やりたい事"を盾に、そこから逃げ出そうとしたのだ。しかしそれはにこのためにも、ましてや自分のためにもならず、ただただ自らの選択に対する後悔ばかりを産み出してしまった。今更許してもらえるとは思っていない。ただ、謝りたかった。そして、今度こそは、自分の気持ちに...
「もういいわ。ありがと」
いつの間に泣き止んだにこが、希の腕をするりと解く。泣き腫らした目は真っ赤だが、その目は不思議な安寧を宿していた。感情を思い切り吐き出した反動だろうか。
「ほんとにもういいの。もう大丈夫だから」
「にこっち、ウチ、やっぱり...」
「しばらくアイドル活動とは距離を置こうかな」
希の言葉を遮るように、にこがぽつりと呟いた。しかしその顔は、先ほどの清々しい表情をたたえたままだった。
「希の気持ちは、だいたいわかった。それは私にとって嬉しいことだけど、それとは関係なくて、これは私の中でもう決まったことなの。アイドルは、しばらく休止する。もちろん、諦めたわけじゃないわよ。部活もやめるつもりはない。ただ、希の言ってた"運命の巡り合わせ"ってやつに、少し賭けてみようかなって思ったのよ。こんな私でも、いつか輝ける時が来るのなら、その時を待ってみようかなって...って、なによ、希が泣きそうになってどうすんのよ」
「うう~、にこっち~」
理由のわからない涙がとめどなくあふれ出してくる。ぬぐってもぬぐっても、ただ無色にして透明な涙は、流れ出すのをやめることはなかった。
「ちょっとちょっと、希が泣いちゃったら片手落ちになっちゃうじゃない。私を...慰めにきてくれたんでしょ」
「そうやけど~~、うぅ~」
ぐすん、と大きく鼻をかみ、涙をなんとか堪えてにこと向き直った。先程までの状況とはうってかわって、かたや笑顔、かたや崩れんばかりの泣き顔である。
「...ありがと。でもにこっちは....それでええやんな。ならウチも、にこっちがやる気になったら、今度こそは、にこっちがダメって言ったって、とことん付き合う気やから、覚悟しとき」
「言ったわね?その言葉、覚えときなさいよ」
窓の外でははちきれんばかりの橙に染まった太陽が、没する前の最後の輝きを投げかけ部室を暖かく満たした。にこは、一度決めたら絶対に聞かない。でも、どんなに回り道をしても、最後は確実に正解にたどり着く、そんな強い信念を持っていることも希はよく知っている。運命の巡り合わせ、と言うのも、口からのでまかせではない。それは希にとって、ある種の確信を伴ったカンとでも言えるものだろうか、しかしそれは、にこを安堵させるに足る説得力を持っているカンであった。こういうカンが外れた事も、今まで一度もなかったのであるから。今はただ待とう。いつか、とてつもなく大きなひとつの輝星が舞い降りて、私たちがまた輝くその時まで。
 
◆◆
 
「にこちゃんのむかしの話~?」
穂乃果が興味ありげに首を伸ばしてくる。
「気になる!聞きたい聞きたい!」
「う~ん、どうしよっかな~、な、にこっち?」
「ちょっと、あんた余計なこと言うつもりでしょ!」
にこが怒ったように大声を出す。
「あはは、冗談冗談。言うつもりはあらへんよ。にこっちが中学生のころ修学旅行のバスの中でやっちゃったあの事は、ウチがちゃんと墓場まで持っていくで」
「ええっ!?にこちゃん、何やったの!」
「何もやってないわよ!あんたも適当なこと言わないで!」
冗談でのらりくらりとかわす。いつもの希である。思い返せば昔、そういえばあのころの自分は自分らしくないというか、なにやら立ち回りに余裕がないような、そんな印象を受ける。今ならわかるが、それはやはり、あの頃のにこという存在が希の気持ちををどれほど占有していたかという事なのだろう。そしてその比率はしばしの安心によって減ったとはいえ、依然、今も希の中では....といったような事を考えていて、なにやら少し恥ずかしい気分になってしまった。
「それより、むかしの話ってんなら、なんでよりにもよってあんたなんかが生徒会なんかに入ったのかの方が、わたしは百倍気になるわね」
「あっ、それは確かに気になるかも」
「そうですね、一体どんな過去が...」
「ウム、その話をするためには、時は遥か昔、総てが全てまろびの中に存在せし頃、その天地開闢より以前まで、はるばる話は遡らねばならぬ...」
「て、テンチカイビャク?にゃ?」
凛が目をまんまるにさせて聞き返した。
「凛ちゃん、たぶん、とにかくすっごく昔ってことだよ!」
「凄いにゃ!いつもフラフラピーヒャラテキトーに見える希ちゃんにも、そんな壮大な背景があったんだにゃ~」
「いやいや、天地開闢って、流石に冗談に決まってるでしょう...そもそも言葉の意味がわからなくても、希の行動にそんな深い意味なんか無いってことぐらいならわかるでしょう」
と、ばっさりと切り捨てる海未。
「あれれ、ウチ、なんか酷い事言われてへん?世界の悪意を感じるよー?」
「でもだって希ちゃん、いつもよくわからないこと言ってるし...」
「ガーン!人はかくも、冷たきものでありしか...ばたり」
「わわっ、急に倒れちゃいました!どうしよう、どうしよう...」
花陽が手をばたばたさせて希を介抱しようとする。
「どーせいつものおふざけでしょ。てきとーに放っておけばいいのよ」
「やーん!にこっち冷たいなー」
希が突っ伏していたテーブルから顔をあげて泣き顔を作ってみせた。
「あんたねぇ...」
そう言って、しかしにこは呆れ混じりの笑顔で希を見る。いつもの表情、いつものにこがいる。にこはあの頃言ったことを、まだ覚えているだろうか。
 
他愛のない会話が、今日もまた続いていく。μ'sのメンバーたちが語らうこの空間だけ、別の時間が流れているように感じていた。外は曇天、蒸し暑い空気が立ち込めてはいるものの、年頃の女子たちに充足するある種の力の前では、度し難く手に負いがたき天気であろうが、それですらちいさな外部要素のひとつに押し込められてしまう。わたしたちのこの力があれば、たとえどんなものが目前に立ちはだかろうとも、みんなで立ち向かえる気がする。そんな根拠のない全能感にさえ、今は浸ってもよいだろう。
この素晴らしいひとときを、巡り合わせを、作ってくれた運命の女神さまに感謝するとともに、ほんの少しだけ、贅沢をお願いしてもいいかな。運命の女神さまというものがもしいるならば、この時間がもう少しだけ続くよう取り計らってくれますように....